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冥福を・・・・いや、それどころではない。 

もう、15年になるのか。

 

あの、阪神・淡路大震災から。

 

あの日は私も覚えている。

 

朝のニュース(仕事の為ずっと、常在戦場で、毎朝4時にテレビタイマーをセットしていたから)で途中から画面が変わって地震が起こり火災が発生しているとの第一報が入ってきた。しかしまだその時は被害状況が正確には解らなかった。体制

しかし、昼、会社の隣にあるレストランで昼飯を食べていた時に続々と報道がされ、

 

「これはただ事ではない大災害だ」

 

 しかし、交通渋滞&麻痺が起き消防・警察・機動隊も為す術もなく、貝原兵庫県知事(擁護批難両有り)の初動体制の遅さ、そして

 

時の社会党首村山富市首相 が自衛隊を派遣するのが遅れた(逡巡した)事に対して、

 

なにぶんにも初めてのことですので

 

と、いけしゃあしゃあとすっとぼけたこと、抜かしたのは誰もが忘れぬであろう。

 

 

と、

今度はハイチ大震災2010年1月13日6時53分(日本時間)が起こった。

 

ところがである、

 

 平野官房長官は14日午前の記者会見で、大地震で被災したハイチに対する支援策について、「日本として何ができるか早急に詰めをしている。資金援助を含めて(支援)する方向で調整中だ」と語った。

 

だけである。

 

AP通信=14日昼(日本時間15日未明)までに米、仏、中、スペインなど海外からの救援隊がポルトープランスの空港に到着。

 特に、ハイチと国交が無い、遠く中国からの迅速な救助対応

 

をしているにも係わらず、

 

日本の国際緊急援助隊を運ぶ航空自衛隊・C130輸送機の運航を支援するため、

自衛隊の調査チーム

16日米マイアミに向けて防衛省を出発した。

マイアミでハイチの空港の被害状況などの情報も収集する。

 

って、いったい何やってんだ?この政府

(民主党&社民党=社会党残党勢力

は?

 

日本時間16日朝生き埋め状態となった人々の生存の「鍵を握る発生後72時間」を経過したとパン・ギムン総長悲痛な声明を出したにも係わらず、

 もう、助けようにも治療しようにも設備のある病院に搬送しなければ為す術もないと海外メディアがさんざん伝えているさなかに、

 

 日本赤十字社の医療チームが17日、成田空港を出発。

医師、看護師ら8人”19日にハイチ入り

して、いったいどうするんだ?

 

ハッキリ言って馬鹿か?

 

四川大地震(2008/05/12 14時)の時(自民党政権で歴史認識の為ギクシャクしていたが)の時は、

16日夜明け方から到着した救援隊の中には、いくつかの特殊な救助チームがいた。それは日本、ロシア、韓国、シンガポールなどの国の国際救助要員で、成都に着くとすぐに地震災害の深刻な県や市の被災現場に駆けつけた。

 

しかし、山崩れや余震の危険があるということで5月19日に救援活動を停止せざるを得なかった。

  「現場で活動してきた一人です。・・・・・現在はただただ自身の無力感と悲しさしかありません。救助隊として活動していながら、よく考えると中国人の生きている方に触れないまま帰ってきていました。仲間には今回のことで精神的にまいり、離職を決めた者もいます・・・・・」
よほど隊員たちは被災地を目の前に悔しく虚しかったのであろう。察するに余りある。

  この報道を見て、多くの中国人たちは意見を寄せた。以下は中国人たちの声の一部である。

  「私は普通の中国人として、日本国際緊急救援隊の皆さんに言いたいのは、まず心から皆さんの到来に感謝するということです。そしてみなさんは見事に使命を果たしました。中国では、『成功か失敗かによって人を評価してはならない』と言います。もちろん生存者を一人も救出できなかったことが失敗したと言っているのではありません。皆さんは他の国の救援隊と同じように、危険を冒して震災救援の最前線に赴きました。この国際的な人道主義が中国国民を深く感動させ、生存者を救出したかどうかは別として、皆さんが全力を尽くしたことは全ての中国人が分かっています」

 

中国人は日本の自衛隊の救助活動に政治家また民間人は感謝の意を表した。北京オリンピックでは中国人は日本を応援した。のは誰もがおぼえているであろう。

 

 

 そもそも国民の安寧を守り、外国の救難には思想信条如何に係わらず、いち早く駆けつけることが外交上の得点となりまた、政府間の親反如何に問わず「人道援助」をすることが国益となり、その国民の誇りとなり、諸外国へ行って「お前の国は何をしていた」と馬鹿にされることのない生活が補償されるのである。

 

 それを自党保全だけの為に汲々し、それだけの為に国政に居座り国民の安寧より自党の主義主張を最優先課題とし、そのためには他国を怒らせ自党の主張だけを優先し、去年自分が言ったこと昨日自分が言ったことさっき言ったことを翻し、

 

マニフェスト!マニフェスト!

護憲!護憲!

 

と長年騒いで居た連中が、平気で憲法を無視し人命を無視した行動に出て居るのは、もう空恐ろしい。

 

こんな連中が後4年も居座り続けるのか。

かの、土佐大名山内家家祖「山内一豊」を知っている人は多いであろう。カミサンの箪笥預金で一介の武士から大名にのし上がった家である。

徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加し、「小山評定」で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言しその歓心を買っている。また周辺の勢力が東軍につくよう一豊が積極的にとりまとめていた要は後方での根回しに努めて家康のお目見えを高くした。その後、関ヶ原の戦い本戦では毛利・長宗我部軍などの押さえを担当し、さしたる手柄はなかったものの戦前の功績を高く評価され土佐国一国・9万8000石(太閤検地時に長宗我部氏が提出した石高、のちに山内氏自身の検地で20万2,600石余の石高を申告)を与えられた。

 

ハッキリ言って根回し役人がのし上がっただけである。平侍だった時以外はさしたる「武功」はない。

 

これが、かつての四国王長宗我部氏及び家臣を追い出し土佐藩主となったわけである。

 

当然藩内も江戸表でも

「なんだコイツら」

としか見られない。

で、

藩内では山内家家臣を「上士」、旧長宗我部氏の家臣を「郷士」とした絶対的差別的扱いし、押さえつけ

江戸表に於いては、

はて?

御家に於いては、如何様る武勲がお有り成り也?

是非御聞かせ願いたひ

 

と数百年にわたって馬鹿にされ続け、それを国元で鬱憤晴らしに郷士を虐め抜いたそうである。

 

あの当時は数百国に別れ互いの交易は絶無に近かったから江戸表だけで済んだが、

今はお互いに複雑に交流している時代である。

 

「はて?御国はあの被災災害に対して如何様な御活躍がお有りなりや?」

 

言われたくない物である。

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